アンパンマンとイエス

聖書箇所:マタイによる福音書544節~46

44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。

 

今回取り上げた聖書箇所で最も注目してほしいのは、44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 」と46節の「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」である。さて、敵を愛しなさい、皆さんはできますか?自分にとっての敵は、いじめっ子であったり、嫌がらせする人であったり、嫌いな人などがある。そういう人たちに「愛する」行為は出来るのだろうか?今回は「愛」について考えてみたい。


現代の愛では「恋愛」、「家族愛」、「友人愛」などであろう。特に「愛=恋愛」という方程式が、主流である。しかし、神様は「愛」とは「恋愛」だけでなく、友人や嫌いな人にも「愛」を注ぎなさいと教えられてます。では嫌いな人へどうやって「愛」を注いだらいいのでしょうか。この答えは、作家やなせたかし氏はアンパンマンを通して我々に教えられています。

 

何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないのは、そんなのは嫌だ

これはやなせ氏が作詞した「アンパンマンマーチ」の冒頭部分である。アンパンマンは長寿アニメで、大人も子供も知っているアニメである。内容は正義のヒーローアンパンマンは悪者バイキンマンをやっつけるである。こんなストーリーはウルトラマンでも仮面ライダーでもいくらでもあり、いわゆる戦隊系子供向けバング無の一種でしょう。ただ決定的にアンパンマンが他の戦隊系と違うところがある。他の戦隊系の正義のヒーローが悪者をやっつけるのは「死」や「抹消」ですが、アンパンマンバイキンマンを殺しません。それどころが、CMやネットの画像ではアンパンマンバイキンマンが仲良くしている姿や、アンパンマンの背中にバイキンマンを乗せて飛ぶ姿がある。もちろんやなせ氏がそのように書けば、簡単に描けると思う。しかし、やなせ氏はそこを一番伝えたかったと思う。


今回の聖書箇所である44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 」と46節の「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」の2つの御言葉が言いたいことがわかる。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りさない」は、まさしくアンパンマンバイキンマンを殺さない理由ではないだろうか。アンパンマンにとってみればバイキンマンは他のジャムおじさんやチーズ、カレーパンマンと同じぐらい大切な仲間である。この事はアンパンマンをイエス、神様に置き換えると事が可能である。イエスや神様は我々人間を平等に愛してくださっている。またイエスはどんな罪人も愛し、我々のために十字架にかかられた。イエスは自分の仲間や弟子だけでなく、イエスを批判するものや、イエスをかみの御子と信じない者のために死んでくださった。それはなぜか、イエスはすべての人間を愛されていたからであろう。

やなせ氏がアンパンマンを作った理由は、やなせ氏自身が日本兵として戦地に行ったことだったのようだ。そこできっと「正義とは何か?」という思いがあったのではないだろうか。だからこそ「アンパンマーチ」の冒頭に「何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないのは、そんなのは嫌だ」を書いて、人間同士殺すことが生きる意味なのかと問いを出したのではないだろうか。その問いはやなせ氏自身だけでなく、現代の我々にもその問いは心奥底に肥育。誰しもが人生に失敗し、挫折し、苦しみがあり「自分は何のために生きているのか?」と問うと、面白くない人生だと脳裏が「自殺」という言葉よぎる。しかしそれは、その問いに対する答えではない。「何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないのは、そんなのは嫌だ」の答えは、簡単には出せない。しかし、イエス、神様はすべての人間を愛されている事は聖句から理解することができる。だから誰ひとり要らない命はない事である。そして、世の中は他人を避けるのではなく、我々も親しい人、苦手な人を分け隔てなく愛しませんか?困っている人、苦しんでいる人がいたら、手を差し伸べる。それこそ神様が最も望んでいられることの一つでしょう。アーメン。